お宿日記

篠原琢海・白血病闘病記、そして明るい未来へ

この動画の魂の叫びを聞いて、長男・琢海との出来事が重なり、与国秀行という方の行動に感銘を受けました。
もっと早く、東洋医学の先生方の門を叩いていれば、琢海は助かったかもしれない。
琢海を助けてあげることが出来なくて、自分の努力不足を悔やみます。
今でも、毎日、毎日、長い夢を見て過ごしている気がします。
『夢なら早く覚めて欲しい』 そう願って止みません。

そんな中、納骨を済ませた今日10月30日、琢海の5歳の誕生日を迎えました。
思い返せば、今年の3月14日に急性骨髄性白血病M7の再再々発が発覚し、診断結果は髄外再発という、骨髄の外に白血病細胞が広がっている状態でした。
そして医師からは長期生存率は5%以下と宣告されました。
私は 『そんなはずはない。琢海は絶対に助かる』 と信じて、あらゆる情報をかき集めました。
そこで東洋医学の代替療法、すなわち自身の自然治癒力で白血病を克服させる、ということに書籍を通してたどり着きました。
それからは毎日が主治医との論争でした。
当然ながら『抗がん剤しか望みはない』と言う医師と、片や、抗がん剤に反発する私。
精神的ストレスは極限でした。
そのころの琢海は、高熱を繰り返し、目が腫れ、自力で立てない状態でした。
その時、琢海が母親に言った言葉が
『ママ、僕の体なんか変だよ…。』
私は病状が悪化していると思い、一刻も早く何か処置をしなければ琢海の命が危ない、と直感しました。

その後すぐさま、私の友人の勧めで、東日本で小児医療最先端の病院へセカンドオピニオンへ行き、そのまま転院を決め、5/9に琢海を連れて埼玉県へ引っ越しました。
その病院は部長が頻繁に海外に研修に行き、私は何か良い代替療法や治療を勉強しているのではないか、と信じていました。
しかし、当然ながら西洋医学の医師が勧める治療は『抗がん剤』
そして、前例の少ない3回目の『臍帯血移植』
私はとても悩みました。
と同時に琢海の状態は日に日に悪化している。
悩んでる時間はありませんでした。

その数日前、新潟で『長期生存率0%の子供が抗がん剤を使って完治させた』というノンフィクションのドラマを見て、私は同じような奇跡が起こることを信じ、抗がん剤の同意書に捺印をしました。
琢海や私たち家族のことを心底、応援・心配してくれる主治医や看護師の思いも伝わってきたので、この病院を信じて『もう一度抗がん剤に託してみよう』と思ったのです。

まずは、『キロサイト』という琢海には幾度も経験のある抗がん剤でした。
投与後、状態は奇跡的に回復し、主治医が
『この状態が良いときに琢海君が今一番やりたいことをさせてあげたい』
と言ってくれました。
それは『メイク・ア・ウィッシュ』という、難病を抱える子供たちの夢を叶えてあげるボランティア団体のサポートの下での計画でした。
ストレスを緩和させ、楽しいことをさせて免疫を上げる相乗効果が狙いです。
私はすぐさま思いついたのが『アンパンマンミュージアム』でした。
ずっと前から琢海が、行きたい行きたい言っていた、夢のミュージアムです。
それを伝えると琢海は大喜びで一週間後の外出を、そわそわしながら心待ちにしていました。
しかし前日になって、体調が悪くなり、急きょ抗がん剤の追加を行いました。(今思えば、この時の抗がん剤は、その場しのぎの対処療法にしかならなかったのです。)

当日は、絶好調のコンディションとはいかないけど、厳戒な体制のもと出発しました。
そして何と、琢海を心配して平日にも関わらず主治医も同行してくれました。
私は『本当にこの病院に来て良かった、こんなに患者や家族のことを気遣ってくれる病院は他にはない。ここなら必ずなんとかしてくれる。』 そう心に思っていました。
横浜に着いてすぐ、アンパンマンと琢海の好きなコキンちゃんがお出迎えしてくれました。これも全て琢海のための演出でした。また行きも帰りも、メイク・ア・ウイッシュのスタッフが運転し、イベントには全て最優先で参加させてもらい、館内移動も車イスの琢海の為に、特別なルートでスムーズでした。昼食代も頂き、お土産代も頂き、至れり尽くせりでした。
本当に『メイク・ア・ウィッシュ』の方々には心から感謝しています。
私も琢海の願いは全て叶えてあげたいと、全財産を注ぎ込むつもりで欲しがるものを全て買ってあげました。

(この写真は、後日メイク・ア・ウィッシュの方が作製してくれた、私にとって思い出の宝物です。)

楽しい時間も束の間、夕方になり首都高が混む前に帰路に向かわなければなりません。
『まだ居たい。もっと遊びたい。』と駄々をこねる琢海をなんとか説得し、車に乗り込みました。
私は『この一日がこれからの琢海を大きく変えてくれる』 そう信じていました。

しかし、その後の容体が回復には向かうことはありませんでした。
主治医はこの状態で、一番効果が期待できる『マイロターグ』という抗がん剤を勧めてきました。
治癒を目指す私も迷うことなく捺印しました。
そしてこの捺印が、どんどん琢海の体を追い込んでいるとは、この時は思いもしませんでした。

日々、ネットで検索しながら、体に良いと言われることは実践し、無添加の食べ物を必至で探し歩きました。
それでも、少しずつ、少しずつ、琢海の状態が悪くなっていくばかり。
『でも必ず助かる。山はいつか必ず乗り越えるから、それまで辛抱しよう』
そう思いながら、私に出来ることは全てしてあげてたつもりです。
うどんが食べたいと言えば、仮住まいのアパートで良質なうどんを作り、DSが欲しいと言えば、すぐに買いに行き、
『ワガママになっても良いから命だけは助けてあげて欲しい』
そう神様に願いながら毎日を狭い病室で、出来るだけ琢海から離れないように過ごしていました。
しかしそんな努力も一向に報われません。
それでも主治医も毎晩遅くまで、琢海に合う新薬を探してくれていました。

そして見つかったのが『アザシチヂン』です。
主治医から『治療を中止して、琢海君の余命を有意義に過ごさせてあげることも選択肢にある』と言われました。
それでも私は、必ず助けて佐渡に連れて帰ることしか頭に無かったので、悩んだ挙句に捺印をしてしまいました。

琢海との闘病を通じて、健康であることのありがたさ、そして健康の為には何が必要か?
それを気付かせてくれたのは琢海だから、その恩返しに、必ず治して佐渡に連れて帰りたい。
そう自分に誓って、琢海とも約束していました。

3回目の治療が始まった琢海は体調に波があり、良い日は少し外出をしたものの、一日のほとんどをベッドの上だけで過ごし、グズることも、怒ることも、泣き言を言うこともほとんどありませんでした。
同じことを私に出来るか?と言われたら、恐らくストレスで滅入ってしまうと思います。
本当に我慢強く、大きな男に育っていたと思います。
反対に私の方が情けないことに、琢海に八つ当たりをしてしまったことが多々ありました。

『琢海』の名前の由来は、私の大好きな海のように心を広く、そして波のように力強くまっすぐ進んで欲しい、という願いを込めて命名しました。
4歳と10カ月にして、名前の通り、そして父親よりも強くたくましい男に成長していました。

そんな強く育った琢海の入院生活の後半は壮絶でした。
入院から二か月が経過したある日、途中経過の為にCTを撮って調べたところ、腫瘍が背中の骨髄で暴発し、背骨の一部が折れていました。
そんな状態でも毎日痛みをこらえて起き上がり、私と過ごしてくれていました。(今思うと、私が琢海に遊んでもらっていた気がします。)
またCVカテーテルという管が鎖骨から心臓に挿入されていましたが、それが頻繁に外れ、計三回の縫合手術を行なったり、奥歯が腫瘍で押し上げられ、止むを得ない強制的な抜歯。
三か月目には、朝から晩まで痛み止めの麻薬を体に流しっぱなしで、意識が朦朧とした状態で一日一日を必死に過ごしていました。
小さい体で懸命に闘っていた様は、今思い出すと言葉を失ってしまいます。

そして8月に入り状態は増々悪化し、15日には危篤。
酸素濃度がどんどん落ちていき、呼吸器を付けた琢海は苦しそうに、8月20日、最後を両親に見守られながら静かに息を引き取りました。
本当に、本当に、苦しそうな最後でした。
その映像が頭から離れず、今でも思い出すと目を覆いたくなるような光景でした。

今回、この記事を投稿したのには、2つの理由があります。
1つは、
『4年10か月という短い期間だったけど、幼くして逞しい子供が佐渡の相川に確かに存在していた』
ということを知って貰いたいからです。
そして私はその子の父親でいられたことを誇りに思うし、そのバカ親の息子自慢です。
世の中のどこを探しても、ここまで我慢強くて、前向きな4歳児はいないと思います。
琢海と比べると自分がとても小さい人間に思えました。

ただ後悔の念も、強く残っています。

琢海が亡くなる数日前に、facebookを通じて、
名古屋・ナチュラルメディスンの『大沼先生』
大阪・難病克服支援センターの『戸田所長』
このお二方の存在を知り、初めて東洋医学の門を叩きました。

大沼先生はこう言いました。

『白血病はストレスによる血液の酸化が原因。元々は単純な理由で発熱するのに西洋医学はそこで解熱剤を繰り返し投与する。当然白血球は異物と捉えた薬と闘って疲弊して壊れてしまう。そこを顕微鏡で覗けば、狂った白血病細胞が増殖していても当たり前。西洋医学の盲点は、採血をしても顕微鏡しか覗かない。車のオイル交換は色や汚れ具合を見るのに、人間の血液は数値しか見ない。血液も同じように色や質を検査するべきだ。』

大沼先生の意見は、とても納得できます。

そして、難病克服支援センターの戸田所長は、

『病院から処方されている薬を出来るだけ断ち切って下さい。食生活を改めて、化学物質が入る量を減らし、解毒(排出)させる為の良質な食事を取らせて下さい。そして解毒に一番有効な七葉純茶を一日二本、3か月飲ませれば琢海君は必ず回復に向かいます。ただ最初は好転反応といって、一時的に症状が悪化するので、その時は焦らずに落ち着いて経過を見てください』
と言いました。

私は、過去に戻りたいという衝動を今でも抑えきれません。
あの時、新潟で琢海が母親に言った、あの言葉
『ママ、僕の体なんか変だよ』
あれは、間違いなく戸田さんの言う 『好転反応』 だったはずです。

新潟の病院に居たころは、私は何となく薬漬けは体に良くないと、病院で処方された薬はほとんどゴミ箱に捨てていました。
そして病食は極力食べさせず、無添加の弁当やパンを買っては食べさせていました。
他にも知り合いから勧められた免疫を向上させるプロポリスも飲ませていました。
まさに東洋医学の先生方の教えの通り、
『化学物質を入れないようにして、排出に専念させる食事を摂る』
これが出来ていたので、琢海の体は自然治癒力で回復に向かう途中の『好転反応』が起こっていたのです。
それに気づかず、私は病気が進行していると勘違いし、道を過ってしまったのです。
代替療法を実践しているのに、琢海の容体が悪くなる一方だから不安で怖くて仕方ありませんでした。
この道で合っているという自信を持てなかった。

思えば、琢海は新潟からの転院を頑なに拒んでいました。
子供は、大人にはない不思議な能力を持っています。
もしかしたら、琢海は新潟に居れば治るかもしれない、と直感していたのかも知れない。
だとすると、人生の岐路に立った琢海を、誤った道へ導いたのは私です。
今は、自分が死神ではないのか?とさえ思ってしまいます。
産まれる前から喫煙、知識のない状態で粗悪な粉ミルクや離乳食を与え、発病しても大切な我が子を西洋医学に丸投げ。そして琢海にとって一番精神的に辛く、再発の原因でもある『離婚』
離婚を切り出したのも私です。
その後も親権を奪った私は、サッカリン入りの醤油、偽物の塩や味噌、粗悪な油、法を潜り抜けた遺伝子組換え食品ばかりを食べさせ、全てが間違いでした。
全てが空回りしていました。
繰り返す再発に対して、化学物質を排出させる食べ物を全く意識していなかった。
そこへ抗がん剤の投与を繰り返せば、人の体は蝕まれていくばかり。
その結果、琢海を『死』に追いやってしまった。
自分で愛する我が子を殺してしまった。

琢海が産まれてから、私は生まれて初めて人の為に生きたい、と思うようになりました。
『この子達の為なら何でも出来る』
そう思いながら今まで子供たちと過ごしてきました。

そんな大切な琢海を追いつめて、死ぬほど後悔して、今すぐにでも琢海の後を追って謝りたい、と思っています。
けど、現実には次男の涼太がいて、旅館もあります。
神様が、私が死ねないように残したのでしょうか……..。
それに、私には過去に度重なる過ちがあります。
恐らくその天罰として、神様が私に試練を与えているのだと、今は受け止めています。

そして2つ目の理由は、自然に逆らった生活はしてはいけない、と言うことを多くの方に知って頂きたいからです。
添加物であれ、化学物質であれ、農薬であれ、抗がん剤であれ、全ては自然界には存在しない物質です。
人間は自然に生かされている生き物です。
その人間が、自然界に無いものを創りだし、自然の調和を乱せば必ず反動が起こります。

そして白血病や癌などの難病は、化学物質で作り上げた薬で治ることはないと思っています。
それ故に、難病は難病であり続けるのです。
私は決して西洋医学を否定するわけではありません。
勿論、先生方は現在の治療を信じて、患者の為に最善を尽くしていることを、今回、埼玉の病院で感じたからです。
ただ病院にかかる前に、病の原因を一度徹底的に考え、調べて頂きたいのです。
戦前は22人に1人の割合だった癌が、今では2人に1人です。
そして命を失う方も比例して増えています。
反対に、海外では治療方法が代替療法(食事療法)にシフトし、命を落とす方が減っているのも事実です。
こうした出来事はマスコミは一切報道しません。
仮に西洋医学で治っている方は、病をきっかけに人生の目的や目標を変えたか、もしくは食生活を変えたことが治癒の理由だと思います。

西洋医学が病を治すプロなら、東洋医学は病にさせない体を作るプロです。
一度、東洋医学の先生方の門を叩いてみて下さい。
(下記は私が推奨する先生方です、参考にして頂ければ幸いです)

大阪・難病克服支援センター・戸田正樹所長

東京・DDクリニック院長・内海聡先生(書籍が参考になります)

名古屋・ナチュラルメディスン・大沼四廊先生

こんなに大きな物を残してくれた琢海はとても偉大です。
でも、琢海の命の方を残して貰いたかった。
そんなことを毎日考えながら過ごしています。
でもそれでは琢海の教えが無になるし、琢海に怒られそうな気がします。
だから少しづつ、前に進み、この大きな教えを広めることが、今の自分の使命だと感じています。

私は琢海に比べれば長く生かせてもらっているし、好きなこともさせてもらえています。
だから自分の残りの人生を、子供たちの為に全うして、天国の琢海に会いに行くことが今の自分の目標であり、夢かもしれません。
そんな生き方もありかな、と今は思っています。
そしてこれからの毎日、琢海に感謝しながら生きて行かなければいけないし、これからも今までと変わらず 『二児の父親』 として生きていこうと思っています。

『琢海、今日は5歳の誕生日おめでとう。そして心から本当にありがとう。』

2016.10.31日記

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